日々のつらつら

日常の思ったことを書いていきます。不定期、深夜更新多めです。

メダカが死んだあとお寿司食べた話。

前略、お元気ですか。

 

本日、自宅で飼っていたメダカが死にました。

そのメダカは私の家で飼っていた先代メダカが生んだ2世メダカで、オスしか生まれなくてそれからは増えずに減っていったメダカの最後の生き残りでした。

 

そのメダカはすごく長命で、かなり雑な飼育環境で2年近く生きていました。
死にそうな予兆を感じても1か月ほどは精いっぱい生きており、今朝死んだのを見つけた際はとても悲しい気持ちになりました。

 

昼下がり、買い物を行くついでにメダカを埋葬し、そのあとスーパーでお昼ご飯でお寿司を買って帰りました。

ふと、お寿司を食べていると、メダカを死んだときはとても悲しかったのにお寿司の魚に対しては感謝はすれど悲しさを覚えていないことに気づきました。

同じ魚という生き物なのになぜこんなにも気持ちが違うのか自分なりに考えてみました。

メダカとお寿司の魚における決定的な違いは、その魚の一生を知っているか否かであると思います。メダカは我が家で生まれ、死んでいくまでのすべてを知っていますが、私はお寿司の魚は切り身になってからしか知りません。
メダカは家族といってもいい存在で、お寿司の魚は他人であると言えます。

テレビにて、小学校の道徳の一環で、子豚と育てて最後は食べるといったものをみたことがあります。普段はいただきますといった感謝の気持ちを述べずに食べているような小学生でも、最後の場では号泣して食べるシーンを見た記憶が強くあります。
それと同じように、生き物が生きていた歴史を知れば知るほど最後の時に悲しむのだろうと思いました。

 

すこし話が逸れますが、ユーチューブであるラッパーのライブを見ていた際に、
自分に子供が生まれ、成長していく姿を見ていくことで、目の前にいる他人にも子供の時期があり、いろいろなことを経験して成長し今この場に立っていると考えれるようになって他人を今までの一段階高く好きになったと言っていました。

どのような生き物にもそこまでに成長したその人の歴史があり、どんな人であってもその人だけの歴史があることを考えればこれからもっと好きになれる気がすると思いました。

 

話が大きくなりますが、かたちはどうであれ生き物や物には別れがあります。
別れを悲しまないためにも、普段から愛着や尊敬をもって接し、写真など形に残るものを作っておくとよいのだろうなと思います。

 

かしこ。